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71歳の遺書

「栗本慎一郎の全世界史」を一気に読んだ。この本を読むには歴史について一定の基礎的な知識が必要な気がする。浅学な私には、ほとんどの内容が「新しいこと」として頭に入ってくる。しかし、本書は読み手がもつ通俗的な歴史観だけでなくアカデミックな研究者の歴史学をもその根底から覆す。自らの歴史観や世界像が瓦解する快楽。栗本氏の著書のどれもが読者に自己を破壊し深淵を覗き込む快楽を提供する。

栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~栗本慎一郎の全世界史 ~経済人類学が導いた生命論としての歴史~
(2013/04/13)
栗本 慎一郎

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本書は栗本氏の遺書として書かれたものである。自ら最終作と述べている。語られた内容の正しさは後世に証明されるだろう。そのほとんどが。だが、想像力が不足している私にとって、渡辺豊和氏の「縄文夢通信」の援用など、いつもながら少し引いてしまう部分もある。しかし、語り口も含め、一気に読み切ってしまうほど面白い。

「古代4大文明など嘘である。」「シルクロードなどというものは実在しなかった。」(平山郁夫もびっくり)「ローマとは虚飾の残骸、無残な過剰、それだけである。」(塩野七生も一蹴)痛快である。

世界史とは「ゲルマン人と漢民族の都合でつくられた、非常に偏った限定的なもの」に過ぎない。地球規模で歴史をとらえると「人類文明の起源はユーラシア、とりわけ南シベリアにある。」その南シベリアを起点として次々に様々な文明が世界全体に相互連関しながら波及し、花開いていく。栗本氏のまなざしは、宇宙のかなたから人類の活動や歩みを見つめているかのようである。西洋史でも東洋史でもない、人類の歴史をまったく新しい視点でとらえようとする。だから「全世界史」。最新の歴史の教科書なのである。

こういったまなざしで、人類の「美術」を俯瞰できないか。歴史を「ゲルマン人と漢民族の都合でつくられた、非常に偏った限定的なもの」だという前提を踏まえながら、西洋近代の概念である「美術」そのものをも乗り越え、いわば人類の営みとして《美術》をとらえ一冊の教科書としてまとめることはできないだろうか。

私の本棚にある栗本氏の本は「パンツをはいたサル」「パンツを捨てるサル」「都市は、発狂する」「鉄の処女」「さぁ、車で出かけよう」(前掲)いずれも、光文社のカッパ・サイエンス。

「パンツをはいたサル」を再読してみた。戦争、蕩尽、供犠、祭り、ギャンブル、宗教など秩序ある世界を侵犯し破壊する(パンツを脱ぐ)過剰な行為を行うために生産活動や日常の生活を営んでいると考えてもよい、自然界のはみ出し者であるヒトの性癖を経済人類学の立場で明らかにしている。

それに「縄文式頭脳革命」(講談社)、「脳梗塞になったらあなたはどうする」と「脳梗塞 糖尿病を救うミミズの酵素」(たちばな出版)。栗本氏自身が1999年10月28日未明にこの病で倒れた。脳梗塞についての本は、闘病生活の中で得た知見をもとに書かれている。さすがに研究者の中の研究者。自らの病気についての医師をこえるほどの情報収集に努め、必死に回復を試みる。私も立派な脳梗塞予備軍である。予防から社会復帰までを知っておかなければならないと思って初版を買った。

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「キャリア教育」は若者たちを苦境から救えるか

このテーマで、本田由紀氏の「『教育の職業的意義』若者,学校,社会をつなぐ」(ちくま新書 2009)を取り上げたい。これを読んだのは、公立学校を定年退職して大学生とかかわりをもち始めた時期である。「視界が広がった」。そのような感覚を私に与えてくれた1冊である。

教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)教育の職業的意義―若者、学校、社会をつなぐ (ちくま新書)
(2009/12)
本田 由紀

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統計や資料をもとに今日の若者を取り巻く現実を直視しながら,日本社会と学校教育の在り方を根本的に見直すことを著者は求めている。論点が明確でその展開も整理されている。熱っぽい語り口に加え説得力のある文章である。近年,学校に要請される○○教育が300にも及ぶとされているが,さらに付け加えようとする趣旨ではまったくない。日本社会の構造を変革する大きな要素としての「教育の職業的意義」構築への提案である。

文章は反論に対する本田氏の「反論」から始まる。それらは「教育の職業的意義」を訴える自身の講演や座談会などでの否定的な反応への返答である。

「教育は独自の価値や理念を追求すべきものである」
「教育は人格形成であり職業教育に直結するものではない」
「労働市場に適応するだけの偏狭な能力を身につけることが目的となれば教育の堕落である」
「進路選択はできるだけ先延ばしにすべきである」など。


大学などでいまだに残る職業教育蔑視や不信の風潮の中で,ありがちな反論である。

学校教育は,職業生活という過酷な時代に向かうまでの束の間のモラトリアムなのか,仕事の世界への周到な準備期間なのか。本田氏は,働く者すべてが身につけておくべき労働に関する基本的な知識(法律や交渉などの適切な手段を通じての抵抗)や個々の職業分野に即した知識やスキル(仕事への適応)を重要なものとして位置づけ学校教育に可能な範囲で取り入れる必要性を力説する。

いわゆる○○教育において最大規模をもつ「キャリア教育」を忘れてはいないか。将来のための適切な勤労観や職業観をもたせ,そのための基礎的能力を身につけることは校種を超えて大きな課題と捉えられているはずである。

しかし,「キャリア教育」は教育の職業的意義の追求に対して相容れないものであり,むしろ障害になっていると本田氏は断罪する。

なぜか。

実現する具体的な手段を提供することなく,自ら将来設計し自己実現を果たすことが強力に要請されることによって,結果的に若者たちに過度のプレッシャーを与え,不安感や混乱を増大するだけに終わっていると捉える。

1998年度,兵庫県が全県挙げて中学生に実施した職業体験である「トライやる・ウィーク」は圧倒的な支持を受け全国に波及した。これは今日的な教育課題に対応した幅広い取組としてとらえるべきであるが,主たるものはやはり「キャリア教育」である。

京都市では「生き方探究・チャレンジ体験事業」という名称で中学2年生を対象に実施された。私の校長時代,お世話になる35ほどの事業所に実施前年度に再度お願いし,事後にもお礼に訪問させていただいた。私にとっても地域の方々の営みを知る貴重な機会になっていた。

その時「生き方探究・チャレンジ体験事業」についての意義をまとめたものはこのようなものである。


① 生徒に達成感や自信を与えられることである。自らの取り組んだ仕事について,いわゆる「ナナメ関係」にあたる事業主等から「ありがとう」「よくやってくれた」という言葉をかけられたことの感動を事後の報告会の中で語っている。学校の教育活動ではめったに味わえない達成感と自信を生徒は獲得する。今日の子どもに希薄とされる自己有能感や自尊感情を育むための貴重な体験になっている。

② おとな社会に中で実際に働くことによって,その厳しさと手ごたえを知り,自分の能力や適性を考える機会になる。また,将来の自分の姿を思い描く機会にもなる。保育園や幼稚園での仕事によって,自らの成長を振り返りながら,将来親になり子どもを育てる疑似体験も併せて体験することになる。それぞれの体験を共有するためにもつ事後の報告会において,ほとんどの生徒は「この体験を将来に生かしていきたい」としめくくる。この取組が終わったとき,生徒は少し大人びたように感じられる。

③ 時間を守ること,礼儀正しくすること,相手の立場を考えること,順序立てて人にわかりやすくはっきり話すことは,学校では指導上の事柄であったが,この取組の中では社会的実践として厳しい評価が返ってくることになる。事前の打ち合わせの予約のためにお世話になる事業所に電話する手が震えている生徒の姿を何度も見てきた。社会人の一員としてのルールとマナーを身につける絶好の機会になる。

④ 中学生の問題行動の中には,登下校中に通学路付近の看板にいたずら書きをしたり,ところかまわずごみを捨てたりすることなどがある。家と学校は生徒にとって点と点の存在のようなものであり,その点をつなぐ線は忘れられがちである。苦労して落書きを消す地域の方がおられ,門口を掃除する方がおられる。地域の再発見は地理的な発見だけでなく,地域の人々の営みと人間関係の再発見でもある。

⑤ 期間中及び実施前後に,この取組についての家族との会話が進む。保護者の仕事や生き方の理解が深まるとともに,生徒自身の将来について語り合う機会がもてることは大きな副産物である。

⑥ 学校生活では見られない生徒の意外な姿が見えてくることも多い。生徒理解を深めるためにもこの取組の意義は大きい。また,日本の教員は一般的に頻繁に家庭訪問を行なう。しかし,教員の地域理解は保護者を通してのものに限定されがちである。生徒と同様,地域の人々の営みと人間関係の再発見は教員にとっても大切にすべきことである。教員が自ら勤める学校の校区とその周辺について熟知すること,そして学校と地域との関係で最も遅れている教員の地域参画[地域支援型連携]の道をつける意味でも重要な取組になる。



課題は,本田氏の指摘のとおり,こういった「体験」が生徒一人一人の意味と価値の体系である「経験」として積み上げられることなく,事業が単発的・断片的なものにとどまり,教育システムとして発展的に継続されていないことであろう。

もう一つ,校長時代に感じ取ったことがある。各中学校において私立高校受験を前にして中学生3年生を対象にして面接指導の取組が行われる。その面接官役を校長が務めるのが通例である。「将来どのような仕事に就きたいと思っていますか」という私の質問にASUC(attractive-人気が高い・scarce-希少・uncredentialized-学業不問・career-職業…例スポーツ選手やアーティスト)を挙げる生徒や逆に中学3年生段階で十分達成可能な仕事を明確に述べる生徒もいなくはない。しかし,大方は「自分のよさを生かした仕事に就きたい」「人のため社会のために役立つ仕事をしたい」と答える。「では,あなたにとって自分のよさを生かし,人のためになる仕事とはどのような仕事ですか」と尋ねると返す言葉をもたない。このパターンの繰り返しである。事前の担任の指導がパターン化しているのだろうか。どうやらそうでもないらしい。さまざまな課題を抱える中学生であるが,心の深い部分で本当に自分の特性を生かしながら,人のため社会のために役立ちたいという強い願いをもっていることが見えてきた。茫漠たる荒野の中で方向感覚を失い,佇み苦悶する若者の姿がそこにある。このことは,今日の大学生にもそのまま当てはまりそうな気がする。

進路選択には「職業人・社会人としての自分自身の輪郭が暫定的にでも一定程度定まっていること,もうひとつは世の中の現実についてのリアルな認識や実感,という二つの条件が必要となる。」と本田氏は述べ「そのような自分の輪郭や現実認識を得る機会を若者に与えないままに,つまり選択のための手がかりがないままに,ただ選択を強いるという性質を『キャリア教育』はもっている。」と一般的なキャリア教育の欠陥を指摘する。

したがって,社会がどのように変わろうともたくましく生き抜く力・自らの将来を設計する力・コミュニケーション能力など抽象的で汎用的な能力をひたすら求めるのではなく,大切なことは「職業と一定の関連性をもつ専門分野に即した具体的な知識と技能の形成に,教育課程の一部を割り当てるという方策」を打ち出すことである。それを後期中等教育段階から多くの教育機関によって提供される必要性を訴える。

日本的雇用と新規学卒就職モデルの崩壊という今日の現状を踏まえ,いかにして確かな職業的能力を若者につけ社会に送り出していくのか。本田氏と同様,いびつなキャリア教育を批判する観点で書かれた「若者はなぜ『就職』できなくなったのか」(日本図書センター 2011)の著者である児美川孝一郎氏も同書の中で「アカデミックな普通教科しか学べないような普通科高校という制度枠組みをなくして,すべての高校を総合性(普通教育の課程と職業教育の課程を併置する)の高校と職業高校(専門高校)にしていくべきだ」と述べている。

若者はなぜ「就職」できなくなったのか?―生き抜くために知っておくべきこと (どう考える?ニッポンの教育問題)若者はなぜ「就職」できなくなったのか?―生き抜くために知っておくべきこと (どう考える?ニッポンの教育問題)
(2011/02/18)
児美 川孝一郎

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【参考】児美川孝一郎氏の同書の「エピローグ」には、著者の若者たちへの熱いメッセージが語られ、引用・参考図書としてまとめられた「ブックガイド」は親切なガイドがつけられている。

近年の教育学は「教育の政治的意義」を中心に展開する「シティズンシップ教育」が主流だが,それと同等に重大で深刻な問題が若者にのしかかっていることを直視すべきであろう。非正規雇用の増大,過酷な労働条件,さらに労働市場からの排除とそれのよる貧困化が進む中で,次代を担う若者たちに,私たちはどのようにして明るい展望をもたせることができるだろうか。

それを解くキーワードである「柔軟な専門性(本田氏の造語)」は模式図も含めて本書で詳しく説明されている。労働市場の改革とともに,この「柔軟な専門性」を軸に学校教育の再構築を迫っている。

「このままでは,教育も仕事も,若者にとって壮大な詐欺でしかない。私はこのような状態を放置している恥に耐えられない。」著者の文末に書かれた肉声とでもいえるこの言葉をしっかりと受け止めたいものである。


「日本のデザイン」-美意識がつくる未来- 原 研哉 岩波新書 2011

日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)日本のデザイン――美意識がつくる未来 (岩波新書)
(2011/10/21)
原 研哉

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編集者から勧められた書名は「デザイン立国」だったそうである。日本の美意識が「未来への資源」とする原氏の主張にふさわしい書名かもしれない。

前掲、内田氏の「普通のデザイン」とほぼ同様のコンセプトで書かれている。日本の空間の本質を「空白」(うつろ)とすることや「茶の湯」の取り上げ、触覚性の重視など共通する部分も多い。

違いは、「普通のデザイン」に比べて、より未来志向。都市とクルマ、ライフスタイルと住い、「経験のデザイン」や「もてなしの織物」としての観光、創造性を触発する媒体としての新素材開発など、日本文化の美と知に一層の磨きをかけ、その輝きを世界に発信しようとする。

「デザインはスタイリングではない。ものの形を計画的・意識的に作る行為は確かにデザインだが、それだけではない。デザインとは生み出すだけの思想ではなく、ものを介して暮らしや環境の本質を考える生活の思想でもある。したがって、作ると同様に、気付くということのなかにもデザインの本意がある」(原氏)

古いデザインを否定し新しいデザインを次々と作りだすこと(20世紀のデザイン)がすべてではない。21世紀のデザインにおいては、世界についての新しい視点や切り口を提示することもデザインの重要な働きである。
 
明治以降、日本は欧米の文化を見習うべきモデルとして移入し、経済を中心にあらゆる分野で近代化を進めてきた。その西欧近代という偏狭なグローバリズムが日本のみならず、世界を席巻した。そのひずみや行き詰まりをみせている今日、私たちの身体に宿る日本固有の文化を発掘し、新しい時代のものとして蘇らせることが求められている。

関連図書の一つに「デザイン12の扉」丸善2001がある。

デザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開くデザイン12の扉―内田繁+松岡正剛が開く
(2001/06)
森山 明子、内田 繁 他

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21世紀のデザインに向けて未知の扉を開くことをねらったものである。監修が内田繁+松岡正剛。上記の関わりでは、第五の扉である人類学・山口昌男氏の「アジア発デザインの可能性」が興味深い。21世紀の文化の枠組みは非定住・混血型とし、日本的なものを絶対視せず解体すると同時に、欧米文化を含め異文化を貪欲に吸収ながら日本文化の底流に流れるアジアの感覚を呼び覚ますことが望ましいとする。

「普通のデザイン」-日常に宿る美のかたち- 工作舎 内田 繁 2007

普通のデザイン―日常に宿る美のかたち普通のデザイン―日常に宿る美のかたち
(2007/07)
内田 繁

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4つの講演を一冊の本としてまとめたものである。記述が重複したり相互に関連したりしていることによって、日本を代表するインテリアデザイナー内田氏の考え方がよく伝わってくる。

1つ目(第1章)は「森林に覆われた風土」
日本の風土と日本人の世界観や感性について。いわば日本文化のバックボーンの確認を中心に展開する。日本の「座る文化」「靴を脱ぐ文化」に着目する。

2つ目(第2章)は「方法の記憶」
日本の伝統的な文化である「茶の湯」を今日的な文化の在り方を追究する「メソッド」として捉え直す。

3つ目(第3章)は「弱さのデザイン」

いくつかの日本美術・デザイン・工芸作品を取り上げながら近代合理主義が排除してきた微細性・可変性・不透明性・非固定性・有機性など、日本文化の固有性を再認識する。

4つ目(第4章)は「普通のデザイン」
奇をてらったデザインでもなければユニバーサル・デザインでもない、身体性を伴った日常の暮らしをつくりだすこれからのデザインの在り方を示す。

日本文化の基軸やその特性について、知見を広げるために読む本ではない。むしろ受け止めたいことは、モダニズム崩壊後、一人のデザイナーとしてどのような社会を目指し、その実現を図るかという内田氏の誠実な追究の姿である。なぜこれほどまで日本文化にこだわるのか。内田氏の主張の背景にあるものは、これからの生活における「時間や空間の在り方」(デザイン)を考える上で、日本文化の根源的性格が世界全体にとっても価値あるものだという認識である。

日本人の死生観など民俗学的見地、日本の伝統文化の特性や方法、その今日的意義など、極めて妥当性がありバランスがよい。デザイナーも言葉を磨く時代がやってきた。何度か読むうちに、中学校や高等学校の美術科の教科書のベースの一つとして使えるのではないかと思ってしまった。


公教育を再定義する 松下良平 現代思想2012/4



副題は「公共的市民の育成をめぐる理念と現実」である。

今日、日本社会は大きな地殻変動とでもいえる激動期を迎え、ひとつの時代の終末と新たな時代の胎動の裂け目から様々な課題が噴出してきている。教育にかかわる問題に限定しても、グローバリズムと学力形成、市場原理導入による教育格差、若年労働市場の崩壊現象、学校評価及び教職員評価による学校運営の危機、「学びからの逃走」(佐藤学氏)と「教えからの逃走」(教員の精神疾患の増加)など、それらの難題は相互に関連し合い複合化しているため一朝一夕に解決することは不可能である。まさに閉塞感を伴った混迷と迷走の時代である。

2009年発行された「変貌する教育学」(世織書房)の最終章に佐藤学氏は「『教育の公共性と自立性の再構築』-グローバル化時代の日本の学校改革―」という一文を載せ、国民教育から市民教育への転換を主張している。よく整理されていて分かりやすい。松下氏の課題意識(危機意識)もこれとほぼ共有している。

変貌する教育学変貌する教育学
(2009/09)
矢野 智司、 他

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今日、誰もが実感している政府の統治能力の不足・官僚や行政の独善や怠慢・既成組織の硬直化など(これらをことさらあげつらっても虚しい)を超え、諸問題を創造的に解決していくためには「日本社会は、これまでほとんどなじみのなかった『公共的市民』(public citizen)、すなわち公共的な問題について公共圏で思考し行動する市民を必要とするようになり、その育成という課題に直面する」(松下氏)

松下氏が述べる、学校教育が機能不全に陥り、公共的市民の育成を果たせない学校の実態とは

1 公教育の市場化やサービス業化(場合によっては民間活力を導入し、人々の教育的ニーズを充足し配慮することが公教育の目的とみなされるようになってきた)。
2 従来の学力と同様に自己利益をもたらすものとして「生きる力」〈文科省〉の解釈(「生きる力」の矮小化による多岐にわたるニーズの発生)。
3 テスト至上主義の復活(問題の解き方などの学びの操作主義化)。
4 各学校が教育成果を説明するという社会的要請。
  そのために
① 命令・指揮系統を明確にするための組織のヒエラルキーの細分化(副教頭・主幹教諭・指導教諭など)。
② 評価システムを用いた学校や教職員の管理強化(短期に目に見える成果上げることの重視・指導のマニュアル化・事なかれ主義と自己保身傾向)。
5 評価システムを用い、できるだけ合理的・効率的に目標達成を行う(共同的な学びや社会的文脈に広げた学びが排除される)。


つまり「決められたやり方で『正解』を求め、あらかじめ決められた目標地点に個々の学習者を効率的に誘導するだけの教育が生みだすのは、貧弱な知性、形ばかりのスキル、受け身の構え、他者からの孤立である」(松下氏)

このモデルなき時代を生き抜き、社会を構成する一員として、今日の様々なアポリアを社会的な連帯を図りながら当事者意識をもって解決に向かう「公共的市民」の育成は、社会全体の問題であるが、その中心的な役割を担うのは、やはり学校教育であろう。

松下氏の提言のいくつかを紹介して終えたい。

■街頭や講演を「公共フォールラム」として活用できないか。
例えば、様々な情報操作があるとしても、東京で繰り返し行われている「反原発デモ」は「公共的市民」創出のひとつの試みとして捉えることはできないだろうか。(細谷)
■アカウンタビリティを重視する教育(やり方を問わず求められた結果を出す教育)から、レスポンスビリティを重視する教育(他者とかかわりつつ創造的知性を発揮する人をケアと訓練を通して育てていく教育)の移行。
■学校教育の存在理由を個人が「生きる」だけでなく、個人がより「よく生きる」ことや、社会をよりよくすることに再定義する。
■根本的には、教育観や学校観を転換する。(参考 ―「学ぶことの二つの系譜」)

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プロフィール

ryoichi25r

Author:ryoichi25r

細谷 僚一 hosotani ryoichi
■ 大阪府箕面市生まれ(1948)
■ 京都教育大学教育専攻科美術工芸修了
■ 京都市立中学校教諭(美術科)16年
■ 京都市教育委員会学校指導課指導主事7年
■ 京都市立中学校教頭2年
■ 京都市教育委員会教職員課 人事主事5年
■ 京都市中学校校長5年(定年退職)
□ 大谷大学 教職支援センター教職アドバイザー4年(終)・非常勤講師3年(終)
□ 立命館大学 非常勤講師5年
□ 京都嵯峨芸術大学 教授3年
□ 京都女子大学 非常勤講師1年


履歴が示すように、専門は学校教育と美術科教育です。もともと好奇心旺盛なたちなので、様々なことに関心があります。学校教育にしても美術科教育にしても他のジャンルとのかかわりや歴史的観点から俯瞰的にみていくつもりです。

「美術科教育の未来」
2050年あたりに照準(大風呂敷)をあて、改善の姿を描こうと思っています。

「私の本棚」
読んだ本のまとめや感想をできるだけコンパクトにして整理したいと考えています。最も工夫したいことはそれぞれの本の関連づけです。

「気づ記・思いつ記」
日々の生活の中で気づいたことや思いついたことなどを日記のように表したいと思っています。


 

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