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公教育を再定義する 松下良平 現代思想2012/4



副題は「公共的市民の育成をめぐる理念と現実」である。

今日、日本社会は大きな地殻変動とでもいえる激動期を迎え、ひとつの時代の終末と新たな時代の胎動の裂け目から様々な課題が噴出してきている。教育にかかわる問題に限定しても、グローバリズムと学力形成、市場原理導入による教育格差、若年労働市場の崩壊現象、学校評価及び教職員評価による学校運営の危機、「学びからの逃走」(佐藤学氏)と「教えからの逃走」(教員の精神疾患の増加)など、それらの難題は相互に関連し合い複合化しているため一朝一夕に解決することは不可能である。まさに閉塞感を伴った混迷と迷走の時代である。

2009年発行された「変貌する教育学」(世織書房)の最終章に佐藤学氏は「『教育の公共性と自立性の再構築』-グローバル化時代の日本の学校改革―」という一文を載せ、国民教育から市民教育への転換を主張している。よく整理されていて分かりやすい。松下氏の課題意識(危機意識)もこれとほぼ共有している。

変貌する教育学変貌する教育学
(2009/09)
矢野 智司、 他

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今日、誰もが実感している政府の統治能力の不足・官僚や行政の独善や怠慢・既成組織の硬直化など(これらをことさらあげつらっても虚しい)を超え、諸問題を創造的に解決していくためには「日本社会は、これまでほとんどなじみのなかった『公共的市民』(public citizen)、すなわち公共的な問題について公共圏で思考し行動する市民を必要とするようになり、その育成という課題に直面する」(松下氏)

松下氏が述べる、学校教育が機能不全に陥り、公共的市民の育成を果たせない学校の実態とは

1 公教育の市場化やサービス業化(場合によっては民間活力を導入し、人々の教育的ニーズを充足し配慮することが公教育の目的とみなされるようになってきた)。
2 従来の学力と同様に自己利益をもたらすものとして「生きる力」〈文科省〉の解釈(「生きる力」の矮小化による多岐にわたるニーズの発生)。
3 テスト至上主義の復活(問題の解き方などの学びの操作主義化)。
4 各学校が教育成果を説明するという社会的要請。
  そのために
① 命令・指揮系統を明確にするための組織のヒエラルキーの細分化(副教頭・主幹教諭・指導教諭など)。
② 評価システムを用いた学校や教職員の管理強化(短期に目に見える成果上げることの重視・指導のマニュアル化・事なかれ主義と自己保身傾向)。
5 評価システムを用い、できるだけ合理的・効率的に目標達成を行う(共同的な学びや社会的文脈に広げた学びが排除される)。


つまり「決められたやり方で『正解』を求め、あらかじめ決められた目標地点に個々の学習者を効率的に誘導するだけの教育が生みだすのは、貧弱な知性、形ばかりのスキル、受け身の構え、他者からの孤立である」(松下氏)

このモデルなき時代を生き抜き、社会を構成する一員として、今日の様々なアポリアを社会的な連帯を図りながら当事者意識をもって解決に向かう「公共的市民」の育成は、社会全体の問題であるが、その中心的な役割を担うのは、やはり学校教育であろう。

松下氏の提言のいくつかを紹介して終えたい。

■街頭や講演を「公共フォールラム」として活用できないか。
例えば、様々な情報操作があるとしても、東京で繰り返し行われている「反原発デモ」は「公共的市民」創出のひとつの試みとして捉えることはできないだろうか。(細谷)
■アカウンタビリティを重視する教育(やり方を問わず求められた結果を出す教育)から、レスポンスビリティを重視する教育(他者とかかわりつつ創造的知性を発揮する人をケアと訓練を通して育てていく教育)の移行。
■学校教育の存在理由を個人が「生きる」だけでなく、個人がより「よく生きる」ことや、社会をよりよくすることに再定義する。
■根本的には、教育観や学校観を転換する。(参考 ―「学ぶことの二つの系譜」)

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「学び」の認知科学事典 1学ぶことの二つの系譜 松下良平 2010

松下氏が述べる学ぶことの二つの系譜とは、
①目標を必要とする「学習」
②目標を必要としない「学び」


前者は自明のものとして広く社会に通用する考え方であり、確かな学習目標の設定と、それを達成させるための合理的な手段や方法の吟味・選択・開発・評価など今日の学習理論や学習方法の研究は、ほぼこれを前提として成り立っているといえる。
しかし、この「学習」(勉強―佐藤学氏)は近代西欧に起源をもち、国民国家形成に伴って考え方として広がり、産業社会の活動様式である「労働」(labor)のアナロジーとして定着したものに過ぎないと松下氏は語る。いわば、ある地域におけるある時代の支配的な形式であり、もともと特殊なものに過ぎない。

それに対して、後者の目標を必要としない「学び」の系譜は、状況の変化や活動の進み具合などを推し量りながら可能性を探る「仕事」(work)として、人類が長大な歴史な中で営んできた本質的で普遍的なものであるとする。近代社会や学校教育の論理から「過去の遺物」として排除されてきたが、今日的な「学び」創造のためには、再発掘し再認識することが求められる。

この伝統的な「学び」を、「モノローグ構造」「文化資本」「リキッド・モダニティ」「アフォーダンス」「徒弟制的な学び」「ケア」などのキーワードを駆使して以下のような方向を指し示す。(この事典の特徴は各執筆者が自らの文章に注釈として「キーワード」を添えていることである。それぞれの執筆者が同じ用語をキーワードとして取り上げている場合もある。この重複によって理解がより深まるように感じられる)

自らを取り巻く環境との調和的な関係を築くための媒介を産み出していく「学び」
〈もの・こと・観念・他者・心・身体〉のシステムの変容をもたらす「学び」
取り組んでいる活動そのものにすでに価値が組み込まれている「学び」
探求する中で学ぶ動機や意欲をより産み出していく「学び」
生きている文脈の中で生を更新させていく「学び」
教える人を原理的に必要としない「学び」
実践共同体への参加としての「学び」
鑑識眼に玩味される「学び」


松下氏にとって、これら「学習」から「学び」の移行は近代学校教育制度や今日の文化を根底的に支える近代性の批判でありその超克である。



私がはじめて読んだ松下良平氏の著書は「『知ることの力』心情主義の道徳教育を超えて」である。

知ることの力―心情主義の道徳教育を超えて (教育思想双書)知ることの力―心情主義の道徳教育を超えて (教育思想双書)
(2002/12)
松下 良平

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松下氏は今日の道徳教育を心情主義に陥っているととらえ、その誤りを明らかにするとともに「知ることの復権」を果たそうとする。「(すべきだと)わかっているのにやらない」あるいは「(してはいけないと)知っているのだけれどやってしまう」という「知行不一致現象は道徳的理解の不十分さや一定の性質ゆえに生じるのであって、認識や知から切り離された情意や感情的なるものの欠如によって生じるのではない」(松下氏)

道徳的認識や判断力を身につけることよりも、知を正しい行為に導いてくれる心的エネルギー(意欲、自覚、やる気など)や感情や欲求、衝動に対抗する意志の力(自制心、忍耐力、誘惑に負けない力など)などを中心的課題とする「心情主義的道徳教育」は近代の産物であると松下氏は述べる。

知行不一致がなぜ起こるかといえば、

知の脱文脈化・・・近代の啓蒙主義が道徳を共同体の習慣から引き離し抽象的で普遍的な原理を求めそれに準拠してきたこと。
分割統治・・・「知育・徳育・体育」の三分法や「教育(訓育・訓練)・教授」の二分法など。その中で新たな領域としての「道徳」が生まれた。
知の客観主義・・・知識が真なるものであるためには、人間の実践や様々な状況に左右されることがない客観的で非歴史的、自己完結的な知の体系を求める近代認識論の特有の枠組み。

その不一致を解消する矮小化された方法として、

心の教育・・・知識と行為の乖離を表面的に取り繕う架橋として、意欲や自制心の向上などが力説される。
訓練主義的教育・・・知識を生きて働くものにするため「習うより慣れろ」という掛け声のもとに反復練習を繰り返したり、「応用力」「実践力」「定着力」などのスキルの習熟をことさら要求したりする教育。

では「心情主義的道徳教育論」を乗り越えるためには、

知の解釈学に準拠した教育観の移行・・・知識を言語的―社会的な実践に埋め込まれたものとして、それゆえ身体や感情の次元を含む相互に複雑に連関している三次元的な意味のネットワークと一体となっているものとして捉え、学習者の既有の意味地平に、新たな意味地平を拓いていくことが「学び」となる。したがって、深い理解の追究によって得られた「実践的な学び」は知識と行為を媒介する手段が不要になる。当然、このことは道徳教育にとどまることなく教育全体に新たなパラダイムを準備することになる。


日本の教育の課題は、幅広い教育研究の進展と実際に学校で行われている教育との恐ろしいほど大きなギャップがあると私は考える。哲学・言語学・人類学・社会学などの今日的な研究や新たな知見が残念なことにまったくといってもいいほど反映されていない。

松下氏がこの自書を紹介する文章で述べているように、学校教育現場で交わされている言葉や指導書などの文章は、「ほとんど笑うしかないような ― そしてやがて哀しくなるような ― 空虚なことばや稚拙な考え方が蔓延しているのだ」と語る。さらに自書について「煮ても焼いても食えぬとばかり研究者たちが遠ざけてきた道徳原理の領域に足を踏み入れた。まさに火中の栗を拾う覚悟で」と付け加える。この言葉を高慢なものとして受け止める人もいるだろう。しかし、私は大きな拍手を送りたい。

浅学な私であっても一般的に語られる学校教育や美術科教育についての多くの言葉はすでに死滅していると感じているからである。自由で個性豊かな(自己)表現の追求、その自由な個性のモデルとしての近代芸術家やエピゴーネンの作品やストーリーを学ぶ鑑賞学習のスタイル。生の文脈から乖離した「美術」としての教科の普遍化と教材の純化。美術科教員は、美術史と美術館に支えられた「美術という制度」の抑圧を一度でも感じたことがあるのだろうか。

私にとって、金沢大学教授・松下良平氏は注目すべき研究者の一人である。次は「現代思想」の教育特集号での松下氏の文章を取り上げてみたい。

引用が多くて読みづらい文章になっているが、最後に本書の末尾に書かれている文章を紹介して終えたいと思う。

「今日の日本社会では、厳密な理論的探究も冷徹な批判的精神の欠いたまま、心情主義の(道徳)教育(突きつめれば〈心の教育〉)の幻想にとりつかれて、文部科学省のかけ声に合せながら皆が一斉に同じ方向につきすすみ、誰も責任を自覚しないままに空虚で危険な試みが続けられている。このような事態をいったいわれわれは何と呼べばいいのだろうか。それこそまさに、物質的な豊かな社会の乾いた饒舌の裏側で静かに繰り広げつつある悲劇というべきではないだろうか。」

(この言葉を美術科教育にも突き付けてみたいものだ。 ― 細谷 )


プロフィール

ryoichi25r

Author:ryoichi25r

細谷 僚一 hosotani ryoichi
■ 大阪府箕面市生まれ(1948)
■ 京都教育大学教育専攻科美術工芸修了
■ 京都市立中学校教諭(美術科)16年
■ 京都市教育委員会学校指導課指導主事7年
■ 京都市立中学校教頭2年
■ 京都市教育委員会教職員課 人事主事5年
■ 京都市中学校校長5年(定年退職)
□ 大谷大学 教職支援センター教職アドバイザー4年(終)・非常勤講師3年(終)
□ 立命館大学 非常勤講師5年
□ 京都嵯峨芸術大学 教授3年
□ 京都女子大学 非常勤講師1年


履歴が示すように、専門は学校教育と美術科教育です。もともと好奇心旺盛なたちなので、様々なことに関心があります。学校教育にしても美術科教育にしても他のジャンルとのかかわりや歴史的観点から俯瞰的にみていくつもりです。

「美術科教育の未来」
2050年あたりに照準(大風呂敷)をあて、改善の姿を描こうと思っています。

「私の本棚」
読んだ本のまとめや感想をできるだけコンパクトにして整理したいと考えています。最も工夫したいことはそれぞれの本の関連づけです。

「気づ記・思いつ記」
日々の生活の中で気づいたことや思いついたことなどを日記のように表したいと思っています。


 

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